こんにちは!ラクです。
40代になって、何だか本当に友達がいないと感じる…
そんな風に思ったこと、ありませんか?
今回は、國分功一郎先生の
『暇と退屈の倫理学』をもとに
お話ししていきます!
(私の大好きな本のひとつです!)
今回も、いつも通り
ラク・トクコ・バウの3人も
一緒にお話ししていきます!
トクコえ?なんでなん?ラク君、友達おらんの?



まぁ…言われてみれば…



でもおめぇの場合…そもそも40代になる前から友だちなんて居なかったろ?



まぁ……それも、言われてみれば…💦
「なんとなく退屈だ」という声


40代というのは不思議な年代です。
仕事はそれなりに軌道に乗り、
生活の習慣もできあがっています。
子育て中の人は毎日が忙しく、
そうでない人も仕事と家事の
サイクルが回っています。
外側から見れば「充実している」はず…
でも、ふとした瞬間に
空っぽのような感覚に襲われませんか?
休日、することはある。
でも何もしたくない。
スマホを開いてまた閉じる。
SNSを眺めても何も刺さらない。
マンガだけ読んでしまう。
——「なんとなく退屈」
哲学者ハイデガーは、
これを「退屈の第三形式」と呼んでいます。
この退屈は、
特定の状況に結びついていません。
どこにいても、何をしていても、
内側から湧き上がってきます。
そしてハイデガーはこう言います。
忙しくしていれば、その声は聞こえない。
だから人は本能的に予定を詰め、
タスクをこなし、仕事に打ち込む…



40代になって友達が減ったのは、単に「疎遠になったから」っていうのも、あるんとちゃう?



それはもちろんそうなのですが、「友だちがいない」と「寂しく感じる」正体について、深い所まで考えていくと何だろうという話ですね



なんだか分かりづれぇな。寂しいって気持ちはホンモノだろ?



その「寂しい」という気持ちは、「友だちの不在」が本当の理由ではないのではないか?というところです



その声の正体が、「なんとなく退屈」ってとこにあるかも知れないって、ことね



えぇ…



…ラクよ、おめぇは寂しいやつだな。人情ってモンがねぇよ、人情ってモンが…



…否定できませんね
友達づきあいは「消費」だった?


少し意地悪な問いを立ててみます。
これまでの
友達づきあいは、
本当に
「楽しんでいた」?
哲学者ボードリヤールは、
現代社会における「消費」と「浪費」を
明確に区別しました。
同書の中では、
さらにこのようにも言っています。



記号…?



ラクよ、ワシは腹いっぱいになれば幸せなんだよ…これ以上ややこしくするんじゃねぇ…



つまり、「友達に会う」ということが、形式的っていうか…そのこと自体を「記号」として「消費」していたのではってコト?



友達づきあいにも、この構造はあるような気がします
- 「週末に誰かと会っている自分」
- 「飲み会に呼ばれる自分」
- 「人間関係が豊かな自分」
これらは記号??


友人の存在が、
自分の「充実している証明」という
記号になってしまうとき…
何度会っても満たされない。
次の予定、次の集まり、
次の飲み会……。
それは「終わらない消費」
なのかもしれません。



誤解を避けるために補足ですが、「友達は不要」とは私も思っていません。ただ、「会う」ことで「何を自分は本当に受け取っているのか」という点です。



ややこしいな…会って楽しかったら、それでいいじゃねぇか…



でも、「会えへんかったら、寂しすぎる」っていうのも、「ちょっと違うんじゃない?」っていうのが、ラクくんのポイントなんやない?



そりゃ寂しいだろうよ



でも、それは、なんでなんやろね?



トクコよ、おめぇも友達いねぇだろ



失礼な!おるわ!
退屈の第二形式——これが人間の「正気」?


ここで、國分さんの本の核心に
触れておきたいと思います。
ハイデガーは退屈を三つの形式に分けています。
「何かによって退屈させられる」退屈だ。電車が来ない、会議が長い——外からやってくる退屈。この状態の人は時間を無駄にしたくないという強迫に追われ、仕事の奴隷になりがちだ。
「なんとなく退屈だ」という最も深い退屈。もはや気晴らしも効かず、人はそこから逃げるために何かに決断し、奴隷になる。資格取得、仕事への没頭、あるいは人間関係の義務——どれも「なんとなく退屈だ」という声をかき消すための奴隷状態だ。
パーティーに行って、楽しいのか退屈なのかよくわからない状態。葉巻の煙を眺めながらぼんやりしている時間。(ハイデガーはこれを否定的に描いたが、國分さんはここに反論する。)
第二形式には
自分に向き合う
余裕がある
退屈と気晴らしが入り混じった、
この状態こそが人間の「正気」。
完全に奴隷でもなく、
完全に楽しんでもいない。
そのグレーゾーンに、
考えることの余白があります。


友達との予定が
ぎっしり詰まっていた20〜30代は、
ある意味で
「第一形式の奴隷」だったかも…
40代になって予定が減り、
少し手持ち無沙汰になった今は、
むしろ第二形式——
人間として最も「正気」に近い状態に
入りかけているのかもしれません。
「友達がいない」と感じる
40代の静かな時間は、
退屈との正直な向き合いです。
そしてその
退屈の中にこそ、
…
何かを本当に
「受け取る」ための
余白がある。
「受け取る」とは、何か?





えーっと、私もそろそろついていくのが難しいなぁ💦「受け取る」って、どういうことやろ…



ちょっと例を出しますね。
いつもと違う道を歩いたら、古びた喫茶店の看板が目に入って…なぜかそこが気になって、入ってみた。マスターが淹れたコーヒーの香りと、カウンターの木の質感と、かかっていた音楽——それまで素通りしていた何かが、突然鮮明に届いてくる…



それ、なんか受け取ってんのか?



人間は習慣の中で生きているとき、そういった周囲をほとんど「見ていない」んです。毎朝同じ道を歩き、同じ駅を使い、同じ顔ぶれと話す——



小さな変化に気づくってことかな?これまでに何度か取り上げてきている「観察」の話にも通じるものがありそうやなぁ



ええ。そういった小さな瞬間が、「受け取る」ことの始まりです。そしてこの受け取りは、予定がぎっしり詰まった状態では起きにくい…「観察」も同様、認知的に忙しい時は難しいでしょう?



忙しいと、普段のことをこなすだけで精いっぱいだしな



そうです。でも、友達との予定がなく、少し手持ち無沙汰な午後こそ、「隙間」が生まれる…



あぁーーー…そういうときに、「友達を作らなければ」「コミュニティに参加しなければ」って思っちゃうのは…



そうなんです。そうすると、上で説明した「退屈の第一形式」になってしまいますよね。つまり、時間を無駄にしたくないという強迫に追われてしまうんです



なんか、分かってきたぞ。要はそういった強迫に追われるのではなく、「暇を楽しめ」ってことだろ?



そうです。國分先生の本はもっと深い所の話をしていますが、とても平たく言えば、そうでは無いかと思います
友達がいないことへの、新しい答え


あなたの中で聞こえている
「なんとなく退屈だ」という声は、
実は深いところから来ています。
でも、その声を「消費」で
かき消すのではなく、
消すための奴隷になるのでもなく、
ただ聴いてみるのは
いかがでしょうか?
人間関係の量ではなく、
何かにふと刺激されること…
その体験の深さ。
それが、40代の豊かさの本質かも
しれません。



まぁ…友達なんて、強引に作るものでもねぇしな…



自分が何を受け取れるかを、楽しみながら学んでいくカンジかな…



そうですね。そして「なんとなく退屈だ」と、感じているあなたは…すでにその実践の中にいるのでは無いでしょうか?
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